UNE FILM EST UNE FILM

映画は映画である。映画評、その他

私の好きなZORNの韻について

 ZORNというラッパーの凄さは私が語るまでもなく周知の事実であり、それどころか私がZORNにハマったのはごく最近のことであるから、私がZORNについて論じる適当な人物ではないことは承知している。しかし、それでもどうしてもZORNについて書きたくて仕方なくなってしまった。ハマった時期がいつであろうと、にわかであろうとなかろうと、何かを好きになってしまいその魅力を探究し始めれば、自分の考えを何らかの形で発信したくなるものである。ということで、本稿ではZORNの魅力、特にZORNの韻の魅力について、自分なりに紹介してみたいと思う。ZORNといえば韻、というほど、彼は韻を踏むラッパーなので、その凄さ・魅力については各所で散々語られていると思うが、もし本稿を読んで少しでも新しい気づきがあれば、私としても嬉しい限りである。

 

ZORNの韻は冷静にすごい

 ZORNは韻を踏みまくる。まさに「空が青いのと一緒」*1なくらいの常識であるが、実際韻の踏み方がすごい。それは踏む文字数の長さや、踏む数だけにとどまらない。気づくと感動してしまうような踏み方をするのだ。しかしあまりに踏みまくるため、韻のテクニックの基準がインフレ化してしまい、「ZORNならそれくらい余裕でしょ」となりかねない。そこでまずはそのすごさを冷静に、客観的に讃えていきたいと思う。

 

まずは、“Don't Look Back”より。


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この人生は選択の連続 ペンはトレンドより生活と連動

 「選択の連続」と「生活と連動」で脚韻で踏んでいるだけでなく、中間韻として「トレンド」でも踏んでいる。しかも「トレンド」と「と連動」は子音まで一致しているという凄さ。これにより韻の聴き心地(略して「韻心地」とでも言おう)がとても良くなっている。こういうのをあまりにしれっとやってくるから恐ろしい。

 

もうひとつ。KREVAへの客演“タンポポ”より。


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やがては枯れ 綿毛 でも離れた場でまた芽出す

 hookの部分のリリックだが、一聴してなにが起こっているのかわかりづらい。でもよくみてみると以下のようになっている。

やがて/は枯れ /綿毛 でも/離れ/た場で/また芽/出す 

 「やがて」「は枯れ」「綿毛」「離れ」「た場で」「また芽」すべて"aae"で踏んでいるのである!これの何がすごいかって、たとえばその前の「常にそう ステージ上 有言実行 胸に問う 夢 理想」のように単語で踏んでいるのではなく(無論、これも全踏みで物凄いのだが…)、文の塊の中で踏んでいるということである。だからもはや注意して聴かないとピンとこないレベルで滑らかな韻心地が生み出されているのである。どうやったらこんな韻が思いつくのか、常人にはちょっとわからない。

 

韻と韻が織りなす意味

 Creepy Nutsオールナイトニッポン0(ZERO)」にZORNがゲスト出演した際のトークで「韻の飛距離」という概念が紹介された。その意味は、R-指定いわく「「A」という言葉と「B」という言葉で踏もうとしたら、「A」と「B」の言葉の響きは近ければ近いほどいい。でも、その内容がかけ離れていれば離れているほど、韻として面白い」ということらしい*2。そこでとりあげられているのは、”Have a Good Time feat.AKLO”の「表参道のオープンカフェよりも 嫁さんとの醤油ラーメン」というラインである。このラジオ以来、韻の飛距離という言葉はすっかり人口に膾炙して、人々が韻を語るときにしばしば言及されるようになった。他にも韻の飛距離でよく挙げられるZORNのラインでは、” Rep feat.MACCHO”の「俺は滝川クリステル でもとしやがマリファナ売り付ける」がある。確かに、「滝川クリステル」と「マリファナ売り付ける」で韻を踏める人間はZORN以外存在しないだろう。

 しかし、ZORNライミングが織りなす言葉と言葉の反響は、このような「韻の飛距離」だけではない。

 

例えば、”Walk This Way feat.AKLO”にはこんな韻がある。


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ラッパーでパパ 二足のわらじ 一つの形 急ぐのは無し 一方通行な旅 もう遠くへ来た

 この四連続のライミングで特に注目したいのは最初の二つ「二足のわらじ」「一つの形」である。「ラッパー」であり「パパ」であるというZORNが繰り返し主題にしてきたテーマーーだからこそ”my life”で「洗濯物干すのもHIP HOP」とラップすることができるのだーーがこの韻に完璧に込められている。「ラッパー」と「パパ」の「二足のわらじ」が彼の人生の「一つの形」なのだ。さらに「二足」と「一つ」という数字がこの韻に対句的な意味を持たせており、修辞技法として極めて高度なことを行なっている。しかも当然かのように一文字も踏み外していない。あまりに凄すぎる。

 

もうひとつ紹介する。”No Pain No Gain feat. ANARCHY”


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No Pain No Gain ドン底の光景 本物の条件

 これもこの曲の主題がそのまま凝縮されたような見事な韻である。「ドン底の光景」を見てきたことこそが「本物の条件」ということである。二つの言葉が対比的であり、韻からイメージがとても立体的に立ち上がってくる。そして、これも踏み外さず全踏みの韻である。もはやそれが標準のようになってしまっているが、「光景」と「条件」の四文字踏みだけでも通常なら韻として十分である。

 

短い韻でもすごい

最後に紹介したいのは、”最ッ低のMC (2014 Showa Remix)”から。


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勉強ダメ 運動ダメ でも言われたんだ ラップはヤベェ

 たった二文字でここまでかっこいい韻があるだろうか?これは自分だけだろうが、モハメド・アリの世界一短い詩といわれている "me, we"をどことなく思い出してしまう。それほど、短いからこそかえってその詩的さが際立つ韻だと思う。この韻の良いところは「ヤベェ」という言い方で、仲間内での評判というのを上手く表現しているし、勉強も運動も「ダメ」だったZORNがラップに賭けるようになった原点を感じ取れる。バースの最後に二文字の韻をパンチラインとして持ってくるなんて、なんともニクイ。

 

リリシストを体現するラッパー

 こうしてみると、ZORNは踏む韻の文字数、数、「飛距離」だけでなく、いくつもの多面的な韻の魅力を発揮しているラッパーである。文字数や数だけでない踏み方の巧妙さが生み出す「韻心地」もその一つであろう。またそれ以上に特筆するべきは、韻になる言葉同士が反響しあって立ち上がる意味であったり、イメージが浮かび上がるワードセンスであったりといった、詩的な力強さである。そして、それこそが「リリシスト」の称号に相応しいラッパーの条件といえるのかもしれない。おそらく現在の日本のHIP HOPシーンは、かつてないほど才能あるラッパーに溢れている時代だと思うが、そんな中でもZORNほど韻の踏み方と詩的なスキルを持つラッパーは存在しないと、管見ではあるが私は考える。

『悲情城市』と台湾

 9月19~21日、台湾旅行へサークルの3・4年生で行った。それに関連して、伊藤潔『台湾―四百年の歴史と展望』中公新書(1993)を読んだ*1。そしてその後、侯孝賢ホウ・シャオシェン)監督作の映画『悲情城市』(1989)を見る機会にも恵まれた。この記事は、これら三つを通じたちょっとした台湾・エッセイである。

 

                  * 

 

 2泊3日で台北周辺にしか行っていないが、台湾はとてもいいところだった。台北の中心地は、広々とした坂のないまっすぐな通りが広がっていて、見通しが良く開放的である。そこには大きい建物、小さなお店、そして文化的建造物が見事に共存している。さらにバイクと黄色のタクシーがぶんぶん走っていて、それも見ていて気持ちいい。特に夕方から夜にかけては交通量が増えてバイクも大量になり、結構な迫力がある。日本とは違うバイクカルチャーが楽しい。

 地図を見ると、台湾の緯度は中国南部、インド北部と同じくらいで、フィリピンやインドネシアよりはだいぶ高緯度に位置するものの、東南アジアの北東部といってもいいだろう。そのような地理的条件からか、日本や中国といった東アジアっぽさだけでなく、東南アジア的な熱気にも包まれているような気がした。特に有名な夜市。夜になって少しだけ落ち着いた暑さを補って余りある活気に満ちている。おいしそうだったりゲテモノそうだったりする数々のB級グルメ屋台と、服屋、安易なアメコミの小物店、クレーンゲーム機、男性器の形をした石鹸(?)を売るお店などが立ち並び、そこに人があふれかえっている。しかし、接客がガツガツしているかというと、意外とそうでもなく(そういう人もいるが)、人がいないときは堂々とスマホをいじっていたりしている。いい意味でゆるく、おおらかなのだ。おそらくは国民性なのだろう。ほかに訪れたマッサージ店や野球場、お茶店でも同様の雰囲気を感じられた。

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台北の道路。海外旅行の開放感というバイアスも多少あるかもしれないが、日本より空間が広々と感じられる。バイクが走っている写真を撮っていなかったのがちょっと残念。

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夜市。食べ物もおいしいが、なによりこの雑多な雰囲気が素晴らしい。

 さて、台湾では十分(シーフェン)や九份にも行った。といっても自分から行こうとしたわけではなく、皆が行くというからついていったわけである(もっとも、この旅行のほとんどがそんな調子だったが)。十分は願い事を書いて飛ばすランタンが有名で、九份は『千と千尋の神隠し』を彷彿とさせるノスタルジックな街並みで人気の観光スポットらしい。しかし、十分へ向かう電車の途中にもう少しスマホで検索してみると、ある事実が判明した。十分は映画『恋恋風塵』(1987)の、九份は『悲情城市』のロケ地だというのである。いずれも侯孝賢監督の作品だ。

 侯孝賢は台湾を代表する映画監督である。八十年代に、それまでの商業的な映画とは一線を画す映画を撮った一連の監督、及びその運動のことを台湾ニューシネマと呼ぶが、彼は楊徳昌エドワード・ヤン)と並びその代表格とされている。非常に陳腐な言い方になってしまうが、台湾ニューシネマの高い芸術性は、台湾のみならず世界中の映画作家に大きな影響を与えた。それは映画史を語るうえで欠くことのできない記念碑的な出来事であり、侯孝賢の存在も同様である。映画好きとして、彼の代表作『恋恋風塵』と『悲情城市』のロケ地と聞いて、胸が高鳴らずにはいられない。

 『恋恋風塵』の中で十分が出てくる場面は少ないが、その光景は深く印象に残る。映画の冒頭、暗闇のなかに光がぽつんと見え、それがどんどん大きくなってくるとトンネルの中であったことがわかる素晴らしいショットに始まり、この映画では電車や駅が何度も出てくるのだ。現在の十分はランタン上げ屋やお土産店などが連なっており、映画の風景とはだいぶ変わってしまっているが、その名残は確実に感じる。

 ランタンを上げて九份に向かう。夜は混むからとあえて昼に来たのに、それでもかなりの人の量である。くねくねとしばらく歩いたのちに、撮影スポットとして有名になっている『悲情城市』のロケ地にやってきた。前述したように、九份を訪れた時にはまだ『悲情城市』をみていなかったが、それが楊徳昌の『牯嶺街少年殺人』(1991)とともに台湾ニューシネマを代表する作品であることは当然知っていた。「悲情城市」の看板を掲げるお店もあって、一気にテンションが上がる。階段を下りながら、「映画のにおい」のしそうなものを探す。すると、すぐにそれらしきものが目に飛び込んできた。『恋恋風塵』のポスターが大きく掲げられた建物があるのである。慌てて調べてみるとどうやら休憩所を兼ねた無料の映画館らしい。『悲情城市』の地に、先ほど訪れたばかりである十分の線路が映った『恋恋風塵』のポスターを張り出している「映画館」がある。その事実に、思わず熱いものがこみあげてくる。

 

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十分の線路。十分に着くまでの「トンネル」に、一人でテンションが上がっていた(笑)。

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『恋恋風塵』のポスターが掲げてある休憩所兼無料映画館。それまで遠い存在だった映画と急に立ち会えた気がして、相当テンションが上がってしまった。

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悲情城市』の中でも頻繁に登場した構図のショット。九份の撮影スポットらしい。

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悲情城市』の看板が掲げてある食事処(?)。中には入らなかったが、作中に登場したお店なのだろうか?

 

 

 ここで話はそれるが『悲情城市』について説明しておきたい。『悲情城市』は1945年~1949年の、終戦による日本統治終了から国民党政権が中華民国の首都を台北に移すまでの――台湾にとっては文字通り激動の――4年間を、ある家族とその周囲の人々から描いた映画である。本作は侯孝賢にとっても、それまでのフィルモグラフィとは異なる作品であった。というのも、それまでは自身や脚本家の生い立ちも反映した身近な題材を扱っていたのに対し、本作はそこから離れ、歴史的な時代背景を持つ(誤解を恐れず言えば社会的な)題材を初めて扱っているのだ*2。もちろん、そうでなくても撮影・編集ともに一級品の傑作であるし、素晴らしいシーンは沢山ある(個人的にはトニー・レオン演じる聴覚障碍者の文清と寛美がレコードを聴きながら筆談で心を通わすシーンがたまらなく好きである)。また、そのような社会的な面は(ある種のアメリカ映画のように)正面からは描かれず、あくまで数人の人間関係を描いていく中で避けられない背景として浮かび上がるものである。だが、この映画が侯孝賢のフィルモグラフィの中でも、あるいは台湾ニューシネマにおいても格別な存在として評価されているのは、やはりその題材に負うところが大きいだろう。私個人としても、本作を見て台湾の歴史について考えずにはいられなかった。それは一人の映画好きとして、そして日本人として、必然のことのようにすら思える。

 終戦後、日本による台湾統治が終了する。日清戦争以降、50年余の占領であった。長きにわたる植民地支配の間に、日本政府が台湾の近代化や教育制度の組織化を進めたこともあり、台湾には日本文化や日本語が普及した。逆に在台湾日本人として、現地の暮らしになじんだ日本人もいる。本作でもその様子が描かれる。台湾人の中に日本人が混ざって暮らし、『ふるさと』をはじめとした日本民謡のメロディが流れる。そして、日本人の静子は終戦とともに日本へ引き揚げていかなければならなくなる。植民地支配が終了する開放感の中で、人と人とのつながりのレベルではほろ苦さも混じる。

 しかし、日本軍が引き揚げたものつかの間、蒋介石率いる国民党軍の占領が始まる。ここから台湾はさらなる苦難の道を歩まされることになる。国民党政権による統治は、日本のそれよりも劣悪なもので、官僚は腐敗していた。そして何よりも、戦争とそれに続く国共内戦で疲弊している中国経済に台湾は組み込まれるようになった。この結果台湾は、インフレと物資の困窮、失業者の増加等の社会混乱に襲われた。中国本土から台湾にやってきた人を外省人、台湾人でありながら中華民国に国籍変更を強いられた人を内省人と呼ぶが、内省人は抑圧され、不当に扱われたのである。そんな中、1947年2月27日のある密輸たばこの摘発に端を発する事件によって、台湾は大惨事を経験する。それが、本作の背景となる「二・二八事件」である。詳細は省くが、かいつまんで説明しよう。密輸たばこの取締員ら6名が、摘発していた台湾人女性の頭部を銃で殴りつけ、女性は血を流して倒れた。これに憤慨した群衆が一斉に取締員らを攻撃し始めたため、取締員が逃げる際に発砲したところ、無関係の一市民に当たり即死させてしまった。さらに一夜明けた28日、長官公署前広場に集まった群衆が抗議デモと政治改革の要求を行うと、長官公署の屋上から憲兵が機関銃で群衆を掃射し、数十人の死傷者が出る事態となった。これを機に事件は台湾全土に波及し、外省人に対する殴打など台湾人の暴力行為が発生したが、一方で台湾人による調査委員会や事件処理委員会も設置され、政治改革要求が行われた。しかし、中国本土からの増援部隊が到着すると事態は一変し、非常に残虐かつ無法的に多くの台湾人が殺戮、粛清される悲惨な事件へと発展した(知識人の粛清は台湾にとって大きな損失となった)。その数、二・二八事件に関連した一か月余りで、当時の台湾人200人強に一人にあたる約2万8000人とされている。『悲情城市』では、主人公の文清の友人らが抗議運動に身を投じ、最終的には銃殺される。またそれに間接的に携わった文清も、捕らえられ、粛清されることが暗示されている。しかし、前述したように、二・二八事件が前面に出ているのではなく、その時代に生きた台湾の人々の避けがたい背景として現れてくるという点が、本作の誠実ともいえる表象倫理なのである。

 台湾では、国民党の力が弱まっていく80年代に民主化の機運が高まり、86年に初の野党である民進党が誕生、87年には38年続いた戒厳令が解除される。そして、李登輝政権が誕生した90年を機に民主化が加速する。したがって、89年の映画である『悲情城市』は、台湾が民主化のただなかにいる時に制作、公開されたといえるだろう。長きにわたる日本統治が終了した終戦から、国民党政権の占領、二・二八事件、そして中華民国の首都台湾移転へと至る戦後の時代変化を描いた『悲情城市』が、そのような時期に作られたのは、ただの偶然だろうか。私はそこに、歴史を清算しようとする侯孝賢の意志を読み取らずにはいられない。もちろんそれは想像の域を出ないが、ともあれ本作は、それまでタブーとされてきた二・二八事件を扱いながら、大々的な宣伝がされ、社会現象級の話題作となった*3。日本支配、中華民国支配の過去を乗り越えて、民主化へと歩まんとする当時の台湾の人々は、この作品を見て何を感じただろうか。

 九份にあった映画館は昇平戯院という名で、JTBのウェブサイトによると、1934年に完成したものらしい*4。とするならば――九份には、4つの時間が存在していたことになる。つまり、日本統治時代、映画で描かれていた戦後の時代、『悲情城市』が作られた90年前後の民主化の時代、そして、今現在の時間である。それは過去へのノスタルジーを呼び起こすと同時に、台湾が抱えなくてはならなかった、日本統治から続く東アジアの歴史的なつながりを思い出させる。戦後台湾が経験した苦難に比べれば、日本統治時代はまともだったと言えるかもしれない。日本統治時代に台湾の近代化は進んだため、台湾は植民地時代をあまり悪く思っていないし、実際台湾は親日国だ、という類の主張は、日本で一般的と言っていいほどよく耳にする。確かに、日本の植民地支配は、教育の充実やインフラの整備、産業の拡大を促進したし、また植民地下であっても「法治国家」として機能していた。しかし、それが「植民地」である以上、台湾にとっていいことばかりではなかったのは当然であり、善悪二元論的な安易な判断で歴史を評価する行為は慎むべきであろう。伊藤潔の『台湾―四百年の歴史と展望』には、台湾で生まれたという著者のルーツもあってか、その誠実さが随所に感じられる。著者は日本統治下における教育の充実を以下のように述べる。

 

 もとより日本の植民地支配を肯定するものではないが、植民地化の近代化、わけても教育の充実がなければ、一九七〇年代以降の台湾経済の飛躍的な発展はなく、今少し先のことになっていたと思われる。[…]今日の台湾年配者に多く見られる親日感情は、これら日本人教師の存在に負うところ大である。日本が台湾を放棄した後、新たな支配者となった国民党政権は、日本植民地下の教育を「奴隷化教育」ときめつけているが、それは近代的な市民意識に対する認識を欠く為政者が、みずからの独裁と腐敗の政治を隠蔽し、責任を転嫁するための口実に過ぎない。(pp.117-118)

 

一方で、戦時下に台湾に同化を強いながら、戦後台湾人が日本国籍を喪失ことで充分な戦後補償を受けられなかったことを著者は指摘し、次のように述べる。

 

 これら三万余の台湾人犠牲者をはじめ、負傷した軍人、軍属、軍夫は、戦後、日本国籍を失ったことを理由に、なんらの補償も受けていない。その後一九七四末にインドネシアのモロタイ島に残留、三〇年ぶりに発見された元日本兵で先住民のスニオン(日本名は中村輝夫)の救出を契機に、台湾人元軍人、軍属、軍夫の補償運動が展開された。そして訴訟では、日本国籍の喪失を理由に敗訴となったが、一九八七年九月に成立した議員立法の「台湾住民である戦歿者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」で、戦病死と重傷者を対象に一人につき二〇〇万円の弔慰金が、日本政府から支払われた。しかし、同じ「日本兵」として戦地で血を流しながら、戦後における日本人と台湾人の処遇には雲泥の差がある。また、アメリカやイギリス、フランスなど宗主国として植民地の民を戦場に送った国々は、手厚い戦後補償をほどこしている。この彼我の違いを見れば、台湾人に対する「一視同仁」や「皇民化」の同化政策は、ただの統治の手段に過ぎないと批判されても、いたし方あるまい。(pp.131-132)

 

 今現在の日本にとって、東アジアといえば中国、韓国、北朝鮮の存在感が大きい。そこには少なからぬ政治的な摩擦・対立があり、「東アジア」という言葉自体にどこか穏やかでない響きすら感じるかもしれない。その点台湾とは仲が良く、不穏な「東アジア」という枠の内部で考えられることはあまりないだろう。しかし、日本と中華民国による占領という歴史を歩んできた台湾は、紛れもなく――たとえ東南アジア的な熱気に包まれていようと――東アジアの一員なのである。

九份が観光名所になったのは、『悲情城市』のヒットがきっかけらしい。それにもかかわらず、『悲情城市』やそこで描かれる時代、さらにその歴史的な背景を知ることなく、前景化された「観光名所」という理由だけでそこを訪れる人が大半であるのは何とも皮肉である(何を隠そう、私もほとんどそうだったのだ)。しかし、そのような無自覚が台湾人、日本人双方に浸透しているということこそが、台湾が過去の歴史を乗り越えた――少なくとも日本統治のそれは――ことの表れかもしれない(日韓関係が未だに戦前・戦中を引きずっているのはだれの目から見ても明らかであろう)。だとするならば、九份に存在していた時間のうち、現在の時間を充分に楽しむことができた今回の台湾旅行は、とても貴重な経験であった。そう、台湾はいいところだったのだ。

 

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台湾―四百年の歴史と展望 (中公新書)

台湾―四百年の歴史と展望 (中公新書)

 

 

*1:引用のほか、当記事における台湾の歴史に関する記述は本書に依拠した

*2:暉峻創三解説『台湾巨匠傑作選・2018』パンフレット(2018)p.24

*3:同上

*4:

JTB海外観光ガイド(最終閲覧日:2018年11月14日)

https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/asia/taiwan/BCE/112549/index.html

書評:大嶽秀夫『ニクソンとキッシンジャー―現実主義外交とは何か』中公新書(2013)

 リチャード・ニクソンといえばウォーター・ゲート事件でその名を記憶されているアメリカの大統領である。今年公開されたスティーブン・スピルバーグ監督作『ペンタゴン・ペーパーズ』では「見えざる悪役」として描かれていたのも記憶に新しい(ちなみにこの映画のラストシーンではウォーター・ゲート事件の発覚が暗示される)。さらに、アメリカ映画に多少なりとも通じている者ならば、ハリウッドに忌まわしき赤狩りをもたらした非米活動委員会のメンバーであったことも忘れるわけにはいかない。このように何かとネガティブなイメージがついて回る大統領であるが、その一方で米軍のヴェトナム戦争撤退やソ連とのデタントを実現するなど、冷戦において果たした役割は決して小さくない。そして、そんなニクソン外交を側近的立場から支えたのが、ハーバード大学出身の国際政治学者、ヘンリー・キッシンジャーである。本書は、世間的に忘れられがちなニクソンキッシンジャーの外交を、主に対ソ戦略(SALT締結)、米中和解、ヴェトナム戦争からの撤退という三つの事例から検討した本である。そして、それを通じて彼らの「現実主義外交」の様子が描かれていく。つまり、SALT締結、米中和解、ヴェトナム戦争からの撤退といった一見ハト派的ともいえる成果が、いかに現実主義的認識に立脚した外交で成し遂げられたかが詳細に記述されるのである。

 この三つの事例は、本書の第二~四章でそれぞれ述べられる。これらは相互に関連した内容を含むので、各章の要約は控え全体について概観しよう。まず、本書は米中ソ3カ国を主要なアクターとして論じている。これはニクソンキッシンジャー外交の成果として取り上げる三つの事例が、ヨーロッパなどに比べ中国やソ連とより関係した問題であるからだろう。結論から言うと、ニクソンキッシンジャーは、中ソの思惑の上を上手く渡ることができたと言える。ソ連は、東欧や中東への威信を保ちつつもアメリカとの全面的な対立は何としてでも避けたかった。経済停滞と中国との関係悪化のためである。対する中国も、ソ連との関係悪化やヨーロッパでの緊張緩和に伴い、ソ連への警戒心が非常に強まり、アメリカと接近することを望んでいた。アメリカは、中ソどちらの敵対心や警戒心を強めることのないように、中国との和解、ソ連とのデタントを進めていったのである。もちろん、これは容易なことではない。特に中国との接近は、「対ソ・デタントにとって重大な障害となるリスク、それどころかソ連からの激しい反発を招いて米ソ関係を一転して極めて危険な状態にするリスクがあ」るし(p.73)、そもそも狂信的な文化大革命の時代において「中国をソ連以上に、より切迫した脅威とみなす見方が一般的」だった(p.74)のである。しかし、ニクソンは中ソ対立を機に中国は現実主義外交に変更すると考え、対中接近を行い、さらにそれを梃子にSALT締結というソ連との関係改善の具体的な成果まで実現させた。SALT締結は、アメリカがソ連に対し「強い立場からの交渉」姿勢を貫いた結果であり、成果こそハト派的であるが、そのプロセスは融和的なものではなかった。しかもそれは、ソ連からしても「国際政治の上で、米国と並ぶ超大国としての地位を示し得」るものであった(p.69)。中ソの思惑を見抜き、両者の対立を巧みに利用した現実主義外交の面目躍如といえるだろう。

 また、本書はニクソンキッシンジャー外交だけでなく(あるいはそれを理解するために)中国とソ連の外交姿勢についても詳しく述べられている。そして、この米中ソ三か国の思惑が交わったのがヴェトナムであった。中国にとってヴェトナムは南で国境を接している地政学上重要な地で、アメリカからの「逆ドミノ理論」を防ぐためにも北ヴェトナムを支援していた。しかし他方で、朝鮮戦争の経験もあり、全面衝突は避けたいという思いも同時にあった。そこに、関係悪化しつつあったソ連が絡んでくる。ソ連も中国とともに北ヴェトナムを支援する側に立っていたが、ヴェトナムがソ連の勢力圏になれば南北からロシアに包囲されてしまうという脅威が中国にはあった。他方、ソ連としてもヴェトナム戦争に積極的にかかわりたいという意思は当初なかったが、中国に対するけん制や(米ソ対立は避けたいものの)アメリカと平等の勢力圏を認め合いたいなどの思惑から、北ヴェトナムへの支援を行った。アメリカとしては、ヴェトナムは「五流の小国」に過ぎないが、アメリカの力の衰退の象徴とされ、国際的な信頼性を損なってはならないと考え、「名誉ある撤退」を望んだ。さらにヴェトナム戦争では、北ヴェトナムの思惑も重要になってくる。北ヴェトナムは中国が推奨するゲリラ戦に限界を感じ、ソ連から近代重兵器の援助を受けテト攻勢等を行うようになった。北ヴェトナムは経済の近代化のためにもソ連への依存度を高めていくが、それと反比例するように七〇年代以降、中国との潜在的利害対立も現れ始める。ただし北ヴェトナムはアメリカとのデタントに向かうソ連を全面的に信頼してはいなかったし、中国としてもソ連を意識して七二年に経済、軍事援助を増加させるなど利害関係が複雑に絡み合う様相を呈している。中国とヴェトナムの対立が顕現化するのは、南北ヴェトナム統一後、中越戦争によってである。アメリカはアメリカでソ連の北ヴェトナムに対する圧力に期待するも、それはうまくいかず、「ニクソン・ドクトリン」によってヴェトナム戦争の「ヴェトナム化」が表明されてからパリ協定が結ばれるまで数年を要した。その間に、非妥協的姿勢を崩さない北ヴェトナムに対して、軍事的な手段も行っている。このようにヴェトナム戦争は、単純なイデオロギーだけでは理解することのできない複雑な国際政治の現実を示していると言えよう。テレビで悲惨な戦争の現場が流れ、六〇年代には反戦運動が盛り上がり、その後の記憶としてもヴェトナム戦争アメリカにとって批判されるものであった。しかしその一方で、単純な善悪では収まらないリアリスティックな国際政治の世界が存在していたことを本書は改めて示してくれるだろう。

 第五章は「「ネオリベラル・ポピュリズム」と「ナショナリズム」」と題され、現実主義外交を行ったニクソンキッシンジャーの裏側にあった思想を明らかにしている。著者は、ニクソンの発言から、エスタブリッシュメント批判をしつつ多数派に訴えかけるレトリックを使用する彼のポピュリスト的な要素を指摘する。また、ニクソンネオリベラリストの先駆け的存在であったことにも言及する。そして、ニクソンキッシンジャー外交という点で興味深いのは、彼らのナショナリズムである。前述したようにニクソンヴェトナム戦争撤退に際しても、アメリカの信頼性を損なわない「名誉ある撤退」を目指したが、それはニクソンキッシンジャーの、大国アメリカとしてのナショナル・アイデンティティ、「偉大なアメリカ」という理想主義的思想の一面の表れなのである。「一見冷徹な「抑止」という合理性のレトリックの背後に、「偉大な国」というナショナル・アイデンティティが隠されていたのではないか」(p.193)、また「国益の追求、冷徹な計算という自らの言説にもかかわらず、二人のマキャベヴェリズムには、徹底した「商人的」狡猾さを拒否するような、ある種の理想主義がその核にあったことがわかる」(p.195)と著者は指摘するのである。

 著者も漏らすように、国際政治について、「対話」の重要性を説く平和主義や、逆に善悪二元論的な排外主義を主張する言説が日本では数多く見受けられる。また、そうでなくとも、国際政治の世界における状況、駆け引き、判断等の複雑さについて充分に認識している人は少ないであろう。本書は、ニクソンキッシンジャー外交と当時の国際情勢の様子を通じて、読者に複雑な国際政治の一端を伝えてくれるだろう。各章内容が重複したり、時系列が多少前後したりして若干読みづらくはあるが、そのことによって本書を読む価値は減じていないはずだ。

 

 

「クレショフ効果」は本当なのか?

 「クレショフ効果」という有名なモンタージュ理論がある。ウィキペディアに乗っている説明を引用しておこう。

 

効果
「クレショフ効果」とは、ひとつの映像が、映画的にモンタージュされることによって、その前後に位置するほかの映像の意味に対して及ぼす、性質のことをいう。さまざまな映像群とは、ある映像群がほかの映像群に対して、相対的に意味をもつものである。観客にとって、映像がばらばらに単独で存在するわけではなく、つながりのなかで無意識に意味を解釈するのである。本効果は、映画的な説話論の基礎である。

実験
本効果のもつ意味論的伝染を強調するために、レフ・クレショフは、科学的経験(認知心理学)を開発した。クレショフは、ロシアの俳優イワン・モジューヒンのクローズアップのカットを選び、とくに無表情のものを選んだ。モジューヒンのカットを3つ用意し、3つの異なる映像を前に置いた。

第1のモンタージュでは、モジューヒンのカットの前に、スープ皿のクローズアップを置いた。 第2のモンタージュでは、スープ皿のかわりに、棺の中の遺体を置いた。 第3のモンタージュでは、かわりに、ソファに横たわる女性を置いた。

それぞれのシーケンスを見た後で、俳優(モジューヒン)があらわす感情を、観客は特徴を述べなければならない。第1では空腹を感じ、第2では、悲しみを感じ、第3では、欲望を感じたのである。

 

動画も貼っておく。

 

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 ここでポイントとなるのは、対象となる俳優の表情が「曖昧」であるということである。すなわち、その俳優の表情の映像だけでは、嬉しそうにしている、怒っている、あるいは悲しんでいるなどといった意味を読み取ることができない。にもかかわらず、それと何らかの映像とつなぐことで、そのような新たな意味が立ち上がる、より正確に言うならば観客が意味を読み取ってしまう、というのである。

 実際に動画を見てみて、どう感じるだろうか?なるほど、そんな感じがしなくもない、ような気がする。しかし、私ははっきり言って、それはあくまでクレショフ効果の説明を知っているからそんな気がするだけであって、直感的にこの理論は胡散臭いと思っている。確かに、何らかの映像と俳優の曖昧な表情が繋げられれば、観客はそれらの間の意味を探ろうとするだろう。これは言うまでもなく当たり前のことで、観客は映像がつながれている以上、作り手が何らかの意図をもってそれをつないでるとほとんど無意識に思うからである。したがって、スープの映像と俳優の表情がつなげられていれば、「この俳優は、スープを見ているのだな」というくらいには、誰しもが判断するはずである。しかし、そこから先の、俳優が「空腹を感じ」ているという意味の部分はどうであろうか。俳優がスープを見ている以上、そのスープに対して何か思っているとは考えられる。だが、もし空腹を感じているのなら曖昧な表情ではなく、もっと嬉しそうな表情を浮かべているはずである。つまり、スープに対する俳優の表情として妥当な因果関係を見いだせる意味を、観客は見つけることはできないのだ。したがって、スープと曖昧な表情を浮かべる俳優とのモンタージュから生じる意味は、やはり曖昧であると言わざるを得ない。ただ、曖昧であるから、クレショフ効果の説明を知ったうえで動画を見てみると、そんな気もしなくないと思えてしまうのである。

 

クレショフ効果については、こんな解説動画も掲載されていた。この動画でもクレショフ効果の正当性について疑問を呈している。

 

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 この動画では、そもそもクレショフが行った実験が、通説のように曖昧な表情の俳優を用いていなかったのではないかということが述べられているが、この点については専門家でない私には判断しかねる。しかし、7:05からの少年の笑顔の表情とのモンタージュは興味深い。このモンタージュではクレショフのそれよりも意味がより明確に読み取れるであろう。曖昧な表情よりも因果関係が理解できるからである。結局のところ、あるショットとあるショットをつなぐときに、その因果関係が明確であればあるほど、観客は一義的な意味を見出せるし、不明瞭であれば、解釈は多義的で曖昧になるという、ごく当たり前のことが言えるのである。ただし、念のために付け加えておくと、解釈が曖昧だから優れていない、というわけではもちろんない。曖昧であるからこそ人によって多様な受け取り方があり、そのような映画は観客に対して開かれていて豊かであるといるかもしれないし、見終わった後の語りがいもあるであろう。だが、曖昧なものは困惑を生むこともしばしばあるし、そのような「なんだかよくわからない」ものを嫌う人もいるので、注意は必要であるが。

 また、解説動画では、アンドレ・バザンにも言及し、彼を批判している。確かにバザンは、『映画とは何か』に収録されている「映画言語の進化」という論考で、次のように述べている。

 

結局、モンタージュは本質的に、そしてその本性からして、曖昧さの表現とは相容れない。クレショフの実験はまさにそのことを背理法によって証明している。それは人物の顔に明確な意味を与えるのだが、それら三つの解釈が立て続けに、ほかの解釈を寄せつけないものとして成り立つのは、その人物の顔の曖昧さゆえなのである。*1

 

 バザンは、クレショフの実験の正当性を無批判に受け入れているのであろう。しかし、今まで見てきた通り、曖昧なものはやはり曖昧なのである。曖昧なものでもモンタージュによって解釈が一義的になると主張するのは、クレショフ効果という「概念の眼鏡」をかけているからに他ならない。

 

 ここで一つ、あることに言及してみよう。それは映画評論家の町山智浩とある一般人(Twitterアカウント名「ひよこ豆」)の間で行われた『マイレージ、マイライフ』(ジェイソン・ライトマン、2009)の一場面の解釈を巡る議論である。当該シーンの動画と議論のまとめのリンクを以下に貼っておこう。

 

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togetter.com

 

  映画のラストシーン、ジョージ・クルーニーが発着掲示板を見上げるシーンが何を意味するのかについての議論である。ここでは、両者の議論には深く立ち入らない。私が指摘したいのは、このジョージ・クルーニーはまさに曖昧な表情を浮かべている、という点である。ひよこ豆は、「彼の表情ははじめて海外旅行に出るひとのそれです。未知への希望に溢れている」と主張するが、断定できるほど明確に希望に満ちていないだろう。

 もし、クレショフ効果を前提とするのなら、彼の曖昧な表情と、続くキャリーバッグから手を離すショットから新たな、そして明確な意味が生まれてくる。彼は作中で、「バックパックの中に入りきらない人生の持ち物は背負わない」と言っているので、キャリーバッグから手を離すショットは、今までの生き方から手を離すこと、すなわち今までの生き方から距離を置いてみることを象徴しているといえるだろう。そうすると、曖昧な表情のショットとの間に生まれてくる意味は、結果的にはひよこ豆の述べるような「もっと豊かな自らの生を生きることを決意している」といったものになるといえる。

 しかし、解釈を巡って議論が行われているという事実が何よりも物語る通り、バザンが言うような「人物の顔に明確な意味を与え」、「ほかの解釈を寄せつけないものとして成り立つ」ものとしてこのシーンを判断することは、明らかに破綻している。やはり、クレショフ効果という「概念の眼鏡」をかけて解釈しない限り、意味は一義的にはならないのだ。それはつまり、心理学レベルでのクレショフ効果は認められない、と言わざるを得ないことを意味するのである。

 

 ただし、最後に付け加えておくと、クレショフ効果を否定することが、他のモンタージュの効果を否定することにはつながらない。例えば、ミュージックビデオやCMなど、物語を必要としない映像の場合は、イメージをモンタージュすることによって、一義的な意味が生じないにしても、観客に何らかの心理的作用を働きかけるのではないか。この点に関しては恐らく、いろいろな書籍なり先行研究なりがあるであろう。それらを参照していただきたい。

*1:アンドレ・バザン『映画とは何か(上)』岩波書店(2015)p.127

ジャック・タチとリュミエール『工場の出口』

 「シネマ」の語源は「動き」を意味するギリシャ語「キネマ」からきている。もっとも日本には「キネマ旬報」という映画雑誌があるので、キネマという語に対する馴染みもそれなりにあるかもしれない。ともあれ、映画評論家とかがやたらと「運動」という語を使いたがるのもこのことと無関係ではないだろう。「シネマ」や「映画」といった呼び名が登場する前、それは「シネマトグラフ(活動画)」と呼ばれていた。つまり、画像が動くこと、それが映画の始まりだったのである。そんなこと、別に今更言うまでもないかもしれないが。

 しかしながら、映画の起源を巡って一つ補足をしておかなければなるまい。一般に、映画の起源はリュミエール兄弟の『工場の出口』と理解されているが、一方でエジソンが発明した「キネトスコープ」が映画の起源なのだ、という見方もある。確かにキネトスコープで見られるものも「動く画像」であり、その点映画の始まりということもできるだろう。実際、加藤幹郎は、リュミエールを映画の起源とするときに用いられる「スクリーンに拡大投影された動画像を不特定多数の人間が同一の場所で視覚的に共有するもの」という映画の定義を、フランスの映画史家ジョルジュ・サドゥールによって作られた「リュミエール映画史観とでも呼ぶべきもの」*1と批判している。私は映画史家ではないし、本稿の目的も映画の起源を巡る議論に参加するものではないので、この件に関しては言及するにとどめておく。だが、「キネトスコープ」の作品と、リュミエールの作品との質的な違いについて、興味深い発言をしている人物がいる。黒沢清である。以下に引用してみよう。

 

 リュミエール以前にすでに多くの動く映像は数々存在していました。ただ女が踊っているだけのものや、エジソンの発明したキネトスコープによるボクシングの様子をとらえたもの、そういう動く写真はいくつもあった。そして、このリュミエールの『工場の出口』が出現した。初めて、動く写真ではなく、なにか映像というものが、ただ映っているだけではない、そこに何かこちらの想像力をかき立てる、映っていないものに思いを馳せさせる力を持っているようなものが生まれた。つまりこれは単なる動く写真からは想像もつかなかった画期的な前進であり、映像が映画へと進化した歴史的な瞬間でもありました。*2

 

 黒沢清は、リュミエールによって「映像が映画へと進化した」のであると述べる。それは、従来のようにただ映っているだけのものではなく、こちらの想像力をかき立てるものへと質的に変化したというのである。どういうことかというと、フレーム外に存在する空間と、映像の時間の外に存在する時間に対して、観客が想像力をかき立てるようなものになった、ということである。そして、これは上の引用とは別の機会での発言なのだが、このようなリュミエールによって誕生した「映画」とは、「空間と時間を切り取られた世界の一部分のこと」*3であるという、きわめて完結で力強い定義を述べるのだ。

 

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 実に興味深い指摘である。改めて『工場の出口』をみると、約1分間でさまざまなことが起こっていることに気づかされる。工場の中から大量の女性が出てくるだけでなく、自転車も出てくる、半開きになったドアを人が出入りする、馬車が堂々と奥から出てくる、犬が前方を横切る、など工夫を凝らした仕掛けを行っているのだ(この『工場の出口』が演出の施されたフィクション作品であることは有名である)。

 ここで、一つのことがいえるのではないか。つまり、映画の面白さの一つの要素として、「世界をどう切り取るか」あるいは「切り取る世界に何を映すのか」があげられるということである。映画はその後、基本的な映画文法が固められていって、演出や技術革新による変化はあれど、形式的には今日と同じ2時間前後の物語で構成されたものになる。そうすると、映画は世界が切り取られたものだということは意識されにくくなり、一つの完結する物語を楽しむという意識のほうが強くなるかもしれない。あるいは、今日のデジタル化した、CG技術の発達した映画においては、グリーンバックのもとで俳優が走ったり跳ねたりしたのを編集の段階でCGと合成したり、現実には不可能なカメラワークができるようになるなど、そもそも映画が切り取った世界の一部ですらなくなってしまっているといえるかもしれない(このことは私の大きな関心事である)。しかし、映画の原点に立ち返って様々な映画をみたとき、私たちはその「世界の切り取られ方」に驚嘆せずにはいられない作品に出会うことになるのである。

 

 そうしてようやく本題に入るわけだが、ここまで読んでくれたならば、ジャック・タチの映画が驚くべき世界の切り取り方をしているということを私が言いたいのであることは容易に想像がつくであろう。『ぼくの叔父さん』(1958)の冒頭の犬のシーンをぜひご覧いただきたい。

 

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 私は、映画が始まってすぐこのシーンを見るや、それだけであまりの素晴らしさに、この映画が作られ、それをこうしてみることができることの喜びに心が満たされたのである。「ああ、これはリュミエールの映画をやっているんだ。それも信じられないレベルで。」そう確信したのである。

 クレジット画面に続き、軽快な音楽が流れタイトルの「mon oncle」と書かれた壁が映し出される。そこに画面手前から4匹の犬がやってきて、ちょっとウロウロしながら前へ走っていく。そのあとカットが変わると、犬はごみを漁る。そしてまた走り出して、カーブを描いた道を疾走していき、何やらへんてこな家に服を着た犬だけが入っていく。そういった具合である。

 まず、この犬たちはまさにフレーム外という空間の外側からやってくるわけだが、よく動く元気な犬である。その前の工事現場のシーンからいきなりこのシーンがくると不意を突かれ、この犬はなんなんだろうと思ってしまう。一匹洋服を着ている犬は、ヘンテコな家の飼い犬だということがしばらくするとわかるのだが、それにしても、なぜほかの野良犬らしき犬と仲良くしているのかは最後までわからない(そもそも、飼い犬がこんなにも野放しされているのもおかしいと思うのだが……)。ともあれ、この犬は画面手前からでてきて、画面奥へと走っていく。切り取られた世界(=映画)を通過していくのだ。そして、次のごみを漁るシーンで、いよいよある思いを抱く。どのようにして犬をコントロールして撮影しているのか、という思いである。そして、この映画の傑作の予感に早くも心が躍ってしまうのである。繰り返すが、映画とは、黒沢清の定義するところでは「空間と時間を切り取られた世界の一部分のこと」であるが、そうして映った世界というのは、とりあえず現実として受け入れるほかないのである。ここでは、犬がなにやらごみを漁っていて、ごみ箱のふたを開けさえする。続く俯瞰ショットでは、ごみを漁る犬だけでなく、画面を横切る犬まで出てくる。元気のいい犬が、かわいらしく、それでいて生き生きと映っているのだ。私たちはこの犬の存在を認めるほかないのである。

 しかし、一方で、犬を適当にそこら辺に放しても、ごみ箱のふたを開けたり、画面を見事に横切るように動いてくれるわけではない。この犬も演出がつけられているのである。その点に驚きを隠せないのである。つまり、実際に現実として犬が存在していて動いていながら、それが演出というフィクション性を通じてあらわれていること、この現実とフィクションのぶつかりあうところにおいて、このような「世界の切り取り方」を見せてくれるジャック・タチの手腕に、驚嘆せずにはいられないのである。これが、『工場の出口』と同質の面白さであることは明らかであるが、人間や機械よりはるかに扱いづらい犬という動物を、その動物的魅力を一切失わせずに画面に見事に収めている点、『ぼくの叔父さん』に軍配が上がるといえる(むろん、初期映画と50年代の映画とで優劣をつけるつもりは一切ないが)。さらにこの一連のシーンの犬の愛おしさ、究極的に大げさに言えば、生き物がそこに存在して生き生きと動いていることの尊さを賛美するかのような美しさが、音楽と相まってとにかく素晴らしい。このような良さは、世界の一部を切り取るからこそなしえるものであり、今日のようなCGを使った映画では絶対に不可能である。

 この映画の冒頭の3分ほどの説明しかしていなく、『ぼくの叔父さん』全体の論としては、本稿は紛れもなく失格である。しかし、いずれにせよ「世界をどう切り取るか」においてジャック・タチは卓越しているし、タチの特徴は、一般的に考えられているようなコントロールされた(無機質的な)画面の構成力だけでなく、この犬のシーンのように生き生きと動くことを映し出せる点にもあると私は考えている。

 

 最後に、ジャック・タチと『工場の出口』について論じる上で、パン・フォーカスについても述べたかったが、疲れてしまったのでそれは別の機会にまた書こうと思う。また、『プレイタイム』についても触れられなかった。それもまた、その時に。いずれにせよ、ジャック・タチは「お洒落映画」なんていうごく表面的な表現で押し込めていいような作家ではない。リュミエール由来の、映画的な映画作家なのだ。

*1:加藤幹郎『映画館と観客の文化史』中公新書(2006)p.48

*2:黒沢清黒沢清、21世紀の映画を語る』boid(2010)p.223

*3:同上p.105

初投稿

書評と思ったこと、そして映画論に試みていこうかと思います。

 

書評については基本的にジャンルは問いませんが、小説よりも学芸・学術書をメインで読みます。読書自体を意識的に始めたのは大学二年からで読書歴は浅く、まだまだ無学な人間です。関心があるのは世界史・国際政治・政治制度・近現代日本史・アメリカ史・映画ないし映画史・その他文化史といったところです。基本的に大学で受けた広義の影響ですね。形式としては、3000字前後を想定しています。

 

思ったことについてはネットで話題のこととか時事ネタとか、将来のこととかそういうことを書くと思います。たぶん。

 

そして、映画論への試みです。これは普段映画について考えていることを言語化したいという思いが強くなり始めました。「映画論」と銘打ってしまうと荷が重いですが、「映画について思ったこと」とかにする文章化することへの弱さが出てしまうと思ったので、「映画論への試み」というバランスにすることにしました(笑)。今のところは、個々の作品をしっかり論じたり批評したりというよりは、映画史ないし演出について焦点を当てていくつもりです。作家主義とも基本的に距離を置きたいなあ。