UNE FILM EST UNE FILM

映画は映画である。映画評、その他

ジャック・タチとリュミエール『工場の出口』

 「シネマ」の語源は「動き」を意味するギリシャ語「キネマ」からきている。もっとも日本には「キネマ旬報」という映画雑誌があるので、キネマという語に対する馴染みもそれなりにあるかもしれない。ともあれ、映画評論家とかがやたらと「運動」という語を使いたがるのもこのことと無関係ではないだろう。「シネマ」や「映画」といった呼び名が登場する前、それは「シネマトグラフ(活動画)」と呼ばれていた。つまり、画像が動くこと、それが映画の始まりだったのである。そんなこと、別に今更言うまでもないかもしれないが。

 しかしながら、映画の起源を巡って一つ補足をしておかなければなるまい。一般に、映画の起源はリュミエール兄弟の『工場の出口』と理解されているが、一方でエジソンが発明した「キネトスコープ」が映画の起源なのだ、という見方もある。確かにキネトスコープで見られるものも「動く画像」であり、その点映画の始まりということもできるだろう。実際、加藤幹郎は、リュミエールを映画の起源とするときに用いられる「スクリーンに拡大投影された動画像を不特定多数の人間が同一の場所で視覚的に共有するもの」という映画の定義を、フランスの映画史家ジョルジュ・サドゥールによって作られた「リュミエール映画史観とでも呼ぶべきもの」*1と批判している。私は映画史家ではないし、本稿の目的も映画の起源を巡る議論に参加するものではないので、この件に関しては言及するにとどめておく。だが、「キネトスコープ」の作品と、リュミエールの作品との質的な違いについて、興味深い発言をしている人物がいる。黒沢清である。以下に引用してみよう。

 

 リュミエール以前にすでに多くの動く映像は数々存在していました。ただ女が踊っているだけのものや、エジソンの発明したキネトスコープによるボクシングの様子をとらえたもの、そういう動く写真はいくつもあった。そして、このリュミエールの『工場の出口』が出現した。初めて、動く写真ではなく、なにか映像というものが、ただ映っているだけではない、そこに何かこちらの想像力をかき立てる、映っていないものに思いを馳せさせる力を持っているようなものが生まれた。つまりこれは単なる動く写真からは想像もつかなかった画期的な前進であり、映像が映画へと進化した歴史的な瞬間でもありました。*2

 

 黒沢清は、リュミエールによって「映像が映画へと進化した」のであると述べる。それは、従来のようにただ映っているだけのものではなく、こちらの想像力をかき立てるものへと質的に変化したというのである。どういうことかというと、フレーム外に存在する空間と、映像の時間の外に存在する時間に対して、観客が想像力をかき立てるようなものになった、ということである。そして、これは上の引用とは別の機会での発言なのだが、このようなリュミエールによって誕生した「映画」とは、「空間と時間を切り取られた世界の一部分のこと」*3であるという、きわめて完結で力強い定義を述べるのだ。

 

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 実に興味深い指摘である。改めて『工場の出口』をみると、約1分間でさまざまなことが起こっていることに気づかされる。工場の中から大量の女性が出てくるだけでなく、自転車も出てくる、半開きになったドアを人が出入りする、馬車が堂々と奥から出てくる、犬が前方を横切る、など工夫を凝らした仕掛けを行っているのだ(この『工場の出口』が演出の施されたフィクション作品であることは有名である)。

 ここで、一つのことがいえるのではないか。つまり、映画の面白さの一つの要素として、「世界をどう切り取るか」あるいは「切り取る世界に何を映すのか」があげられるということである。映画はその後、基本的な映画文法が固められていって、演出や技術革新による変化はあれど、形式的には今日と同じ2時間前後の物語で構成されたものになる。そうすると、映画は世界が切り取られたものだということは意識されにくくなり、一つの完結する物語を楽しむという意識のほうが強くなるかもしれない。あるいは、今日のデジタル化した、CG技術の発達した映画においては、グリーンバックのもとで俳優が走ったり跳ねたりしたのを編集の段階でCGと合成したり、現実には不可能なカメラワークができるようになるなど、そもそも映画が切り取った世界の一部ですらなくなってしまっているといえるかもしれない(このことは私の大きな関心事である)。しかし、映画の原点に立ち返って様々な映画をみたとき、私たちはその「世界の切り取られ方」に驚嘆せずにはいられない作品に出会うことになるのである。

 

 そうしてようやく本題に入るわけだが、ここまで読んでくれたならば、ジャック・タチの映画が驚くべき世界の切り取り方をしているということを私が言いたいのであることは容易に想像がつくであろう。『ぼくの叔父さん』(1958)の冒頭の犬のシーンをぜひご覧いただきたい。

 

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 私は、映画が始まってすぐこのシーンを見るや、それだけであまりの素晴らしさに、この映画が作られ、それをこうしてみることができることの喜びに心が満たされたのである。「ああ、これはリュミエールの映画をやっているんだ。それも信じられないレベルで。」そう確信したのである。

 クレジット画面に続き、軽快な音楽が流れタイトルの「mon oncle」と書かれた壁が映し出される。そこに画面手前から4匹の犬がやってきて、ちょっとウロウロしながら前へ走っていく。そのあとカットが変わると、犬はごみを漁る。そしてまた走り出して、カーブを描いた道を疾走していき、何やらへんてこな家に服を着た犬だけが入っていく。そういった具合である。

 まず、この犬たちはまさにフレーム外という空間の外側からやってくるわけだが、よく動く元気な犬である。その前の工事現場のシーンからいきなりこのシーンがくると不意を突かれ、この犬はなんなんだろうと思ってしまう。一匹洋服を着ている犬は、ヘンテコな家の飼い犬だということがしばらくするとわかるのだが、それにしても、なぜほかの野良犬らしき犬と仲良くしているのかは最後までわからない(そもそも、飼い犬がこんなにも野放しされているのもおかしいと思うのだが……)。ともあれ、この犬は画面手前からでてきて、画面奥へと走っていく。切り取られた世界(=映画)を通過していくのだ。そして、次のごみを漁るシーンで、いよいよある思いを抱く。どのようにして犬をコントロールして撮影しているのか、という思いである。そして、この映画の傑作の予感に早くも心が躍ってしまうのである。繰り返すが、映画とは、黒沢清の定義するところでは「空間と時間を切り取られた世界の一部分のこと」であるが、そうして映った世界というのは、とりあえず現実として受け入れるほかないのである。ここでは、犬がなにやらごみを漁っていて、ごみ箱のふたを開けさえする。続く俯瞰ショットでは、ごみを漁る犬だけでなく、画面を横切る犬まで出てくる。元気のいい犬が、かわいらしく、それでいて生き生きと映っているのだ。私たちはこの犬の存在を認めるほかないのである。

 しかし、一方で、犬を適当にそこら辺に放しても、ごみ箱のふたを開けたり、画面を見事に横切るように動いてくれるわけではない。この犬も演出がつけられているのである。その点に驚きを隠せないのである。つまり、実際に現実として犬が存在していて動いていながら、それが演出というフィクション性を通じてあらわれていること、この現実とフィクションのぶつかりあうところにおいて、このような「世界の切り取り方」を見せてくれるジャック・タチの手腕に、驚嘆せずにはいられないのである。これが、『工場の出口』と同質の面白さであることは明らかであるが、人間や機械よりはるかに扱いづらい犬という動物を、その動物的魅力を一切失わせずに画面に見事に収めている点、『ぼくの叔父さん』に軍配が上がるといえる(むろん、初期映画と50年代の映画とで優劣をつけるつもりは一切ないが)。さらにこの一連のシーンの犬の愛おしさ、究極的に大げさに言えば、生き物がそこに存在して生き生きと動いていることの尊さを賛美するかのような美しさが、音楽と相まってとにかく素晴らしい。このような良さは、世界の一部を切り取るからこそなしえるものであり、今日のようなCGを使った映画では絶対に不可能である。

 この映画の冒頭の3分ほどの説明しかしていなく、『ぼくの叔父さん』全体の論としては、本稿は紛れもなく失格である。しかし、いずれにせよ「世界をどう切り取るか」においてジャック・タチは卓越しているし、タチの特徴は、一般的に考えられているようなコントロールされた(無機質的な)画面の構成力だけでなく、この犬のシーンのように生き生きと動くことを映し出せる点にもあると私は考えている。

 

 最後に、ジャック・タチと『工場の出口』について論じる上で、パン・フォーカスについても述べたかったが、疲れてしまったのでそれは別の機会にまた書こうと思う。また、『プレイタイム』についても触れられなかった。それもまた、その時に。いずれにせよ、ジャック・タチは「お洒落映画」なんていうごく表面的な表現で押し込めていいような作家ではない。リュミエール由来の、映画的な映画作家なのだ。

*1:加藤幹郎『映画館と観客の文化史』中公新書(2006)p.48

*2:黒沢清黒沢清、21世紀の映画を語る』boid(2010)p.223

*3:同上p.105