UNE FILM EST UNE FILM

映画は映画である。映画評、その他

『悲情城市』と台湾

 9月19~21日、台湾旅行へサークルの3・4年生で行った。それに関連して、伊藤潔『台湾―四百年の歴史と展望』中公新書(1993)を読んだ*1。そしてその後、侯孝賢ホウ・シャオシェン)監督作の映画『悲情城市』(1989)を見る機会にも恵まれた。この記事は、これら三つを通じたちょっとした台湾・エッセイである。

 

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 2泊3日で台北周辺にしか行っていないが、台湾はとてもいいところだった。台北の中心地は、広々とした坂のないまっすぐな通りが広がっていて、見通しが良く開放的である。そこには大きい建物、小さなお店、そして文化的建造物が見事に共存している。さらにバイクと黄色のタクシーがぶんぶん走っていて、それも見ていて気持ちいい。特に夕方から夜にかけては交通量が増えてバイクも大量になり、結構な迫力がある。日本とは違うバイクカルチャーが楽しい。

 地図を見ると、台湾の緯度は中国南部、インド北部と同じくらいで、フィリピンやインドネシアよりはだいぶ高緯度に位置するものの、東南アジアの北東部といってもいいだろう。そのような地理的条件からか、日本や中国といった東アジアっぽさだけでなく、東南アジア的な熱気にも包まれているような気がした。特に有名な夜市。夜になって少しだけ落ち着いた暑さを補って余りある活気に満ちている。おいしそうだったりゲテモノそうだったりする数々のB級グルメ屋台と、服屋、安易なアメコミの小物店、クレーンゲーム機、男性器の形をした石鹸(?)を売るお店などが立ち並び、そこに人があふれかえっている。しかし、接客がガツガツしているかというと、意外とそうでもなく(そういう人もいるが)、人がいないときは堂々とスマホをいじっていたりしている。いい意味でゆるく、おおらかなのだ。おそらくは国民性なのだろう。ほかに訪れたマッサージ店や野球場、お茶店でも同様の雰囲気を感じられた。

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台北の道路。海外旅行の開放感というバイアスも多少あるかもしれないが、日本より空間が広々と感じられる。バイクが走っている写真を撮っていなかったのがちょっと残念。

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夜市。食べ物もおいしいが、なによりこの雑多な雰囲気が素晴らしい。

 さて、台湾では十分(シーフェン)や九份にも行った。といっても自分から行こうとしたわけではなく、皆が行くというからついていったわけである(もっとも、この旅行のほとんどがそんな調子だったが)。十分は願い事を書いて飛ばすランタンが有名で、九份は『千と千尋の神隠し』を彷彿とさせるノスタルジックな街並みで人気の観光スポットらしい。しかし、十分へ向かう電車の途中にもう少しスマホで検索してみると、ある事実が判明した。十分は映画『恋恋風塵』(1987)の、九份は『悲情城市』のロケ地だというのである。いずれも侯孝賢監督の作品だ。

 侯孝賢は台湾を代表する映画監督である。八十年代に、それまでの商業的な映画とは一線を画す映画を撮った一連の監督、及びその運動のことを台湾ニューシネマと呼ぶが、彼は楊徳昌エドワード・ヤン)と並びその代表格とされている。非常に陳腐な言い方になってしまうが、台湾ニューシネマの高い芸術性は、台湾のみならず世界中の映画作家に大きな影響を与えた。それは映画史を語るうえで欠くことのできない記念碑的な出来事であり、侯孝賢の存在も同様である。映画好きとして、彼の代表作『恋恋風塵』と『悲情城市』のロケ地と聞いて、胸が高鳴らずにはいられない。

 『恋恋風塵』の中で十分が出てくる場面は少ないが、その光景は深く印象に残る。映画の冒頭、暗闇のなかに光がぽつんと見え、それがどんどん大きくなってくるとトンネルの中であったことがわかる素晴らしいショットに始まり、この映画では電車や駅が何度も出てくるのだ。現在の十分はランタン上げ屋やお土産店などが連なっており、映画の風景とはだいぶ変わってしまっているが、その名残は確実に感じる。

 ランタンを上げて九份に向かう。夜は混むからとあえて昼に来たのに、それでもかなりの人の量である。くねくねとしばらく歩いたのちに、撮影スポットとして有名になっている『悲情城市』のロケ地にやってきた。前述したように、九份を訪れた時にはまだ『悲情城市』をみていなかったが、それが楊徳昌の『牯嶺街少年殺人』(1991)とともに台湾ニューシネマを代表する作品であることは当然知っていた。「悲情城市」の看板を掲げるお店もあって、一気にテンションが上がる。階段を下りながら、「映画のにおい」のしそうなものを探す。すると、すぐにそれらしきものが目に飛び込んできた。『恋恋風塵』のポスターが大きく掲げられた建物があるのである。慌てて調べてみるとどうやら休憩所を兼ねた無料の映画館らしい。『悲情城市』の地に、先ほど訪れたばかりである十分の線路が映った『恋恋風塵』のポスターを張り出している「映画館」がある。その事実に、思わず熱いものがこみあげてくる。

 

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十分の線路。十分に着くまでの「トンネル」に、一人でテンションが上がっていた(笑)。

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『恋恋風塵』のポスターが掲げてある休憩所兼無料映画館。それまで遠い存在だった映画と急に立ち会えた気がして、相当テンションが上がってしまった。

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悲情城市』の中でも頻繁に登場した構図のショット。九份の撮影スポットらしい。

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悲情城市』の看板が掲げてある食事処(?)。中には入らなかったが、作中に登場したお店なのだろうか?

 

 

 ここで話はそれるが『悲情城市』について説明しておきたい。『悲情城市』は1945年~1949年の、終戦による日本統治終了から国民党政権が中華民国の首都を台北に移すまでの――台湾にとっては文字通り激動の――4年間を、ある家族とその周囲の人々から描いた映画である。本作は侯孝賢にとっても、それまでのフィルモグラフィとは異なる作品であった。というのも、それまでは自身や脚本家の生い立ちも反映した身近な題材を扱っていたのに対し、本作はそこから離れ、歴史的な時代背景を持つ(誤解を恐れず言えば社会的な)題材を初めて扱っているのだ*2。もちろん、そうでなくても撮影・編集ともに一級品の傑作であるし、素晴らしいシーンは沢山ある(個人的にはトニー・レオン演じる聴覚障碍者の文清と寛美がレコードを聴きながら筆談で心を通わすシーンがたまらなく好きである)。また、そのような社会的な面は(ある種のアメリカ映画のように)正面からは描かれず、あくまで数人の人間関係を描いていく中で避けられない背景として浮かび上がるものである。だが、この映画が侯孝賢のフィルモグラフィの中でも、あるいは台湾ニューシネマにおいても格別な存在として評価されているのは、やはりその題材に負うところが大きいだろう。私個人としても、本作を見て台湾の歴史について考えずにはいられなかった。それは一人の映画好きとして、そして日本人として、必然のことのようにすら思える。

 終戦後、日本による台湾統治が終了する。日清戦争以降、50年余の占領であった。長きにわたる植民地支配の間に、日本政府が台湾の近代化や教育制度の組織化を進めたこともあり、台湾には日本文化や日本語が普及した。逆に在台湾日本人として、現地の暮らしになじんだ日本人もいる。本作でもその様子が描かれる。台湾人の中に日本人が混ざって暮らし、『ふるさと』をはじめとした日本民謡のメロディが流れる。そして、日本人の静子は終戦とともに日本へ引き揚げていかなければならなくなる。植民地支配が終了する開放感の中で、人と人とのつながりのレベルではほろ苦さも混じる。

 しかし、日本軍が引き揚げたものつかの間、蒋介石率いる国民党軍の占領が始まる。ここから台湾はさらなる苦難の道を歩まされることになる。国民党政権による統治は、日本のそれよりも劣悪なもので、官僚は腐敗していた。そして何よりも、戦争とそれに続く国共内戦で疲弊している中国経済に台湾は組み込まれるようになった。この結果台湾は、インフレと物資の困窮、失業者の増加等の社会混乱に襲われた。中国本土から台湾にやってきた人を外省人、台湾人でありながら中華民国に国籍変更を強いられた人を内省人と呼ぶが、内省人は抑圧され、不当に扱われたのである。そんな中、1947年2月27日のある密輸たばこの摘発に端を発する事件によって、台湾は大惨事を経験する。それが、本作の背景となる「二・二八事件」である。詳細は省くが、かいつまんで説明しよう。密輸たばこの取締員ら6名が、摘発していた台湾人女性の頭部を銃で殴りつけ、女性は血を流して倒れた。これに憤慨した群衆が一斉に取締員らを攻撃し始めたため、取締員が逃げる際に発砲したところ、無関係の一市民に当たり即死させてしまった。さらに一夜明けた28日、長官公署前広場に集まった群衆が抗議デモと政治改革の要求を行うと、長官公署の屋上から憲兵が機関銃で群衆を掃射し、数十人の死傷者が出る事態となった。これを機に事件は台湾全土に波及し、外省人に対する殴打など台湾人の暴力行為が発生したが、一方で台湾人による調査委員会や事件処理委員会も設置され、政治改革要求が行われた。しかし、中国本土からの増援部隊が到着すると事態は一変し、非常に残虐かつ無法的に多くの台湾人が殺戮、粛清される悲惨な事件へと発展した(知識人の粛清は台湾にとって大きな損失となった)。その数、二・二八事件に関連した一か月余りで、当時の台湾人200人強に一人にあたる約2万8000人とされている。『悲情城市』では、主人公の文清の友人らが抗議運動に身を投じ、最終的には銃殺される。またそれに間接的に携わった文清も、捕らえられ、粛清されることが暗示されている。しかし、前述したように、二・二八事件が前面に出ているのではなく、その時代に生きた台湾の人々の避けがたい背景として現れてくるという点が、本作の誠実ともいえる表象倫理なのである。

 台湾では、国民党の力が弱まっていく80年代に民主化の機運が高まり、86年に初の野党である民進党が誕生、87年には38年続いた戒厳令が解除される。そして、李登輝政権が誕生した90年を機に民主化が加速する。したがって、89年の映画である『悲情城市』は、台湾が民主化のただなかにいる時に制作、公開されたといえるだろう。長きにわたる日本統治が終了した終戦から、国民党政権の占領、二・二八事件、そして中華民国の首都台湾移転へと至る戦後の時代変化を描いた『悲情城市』が、そのような時期に作られたのは、ただの偶然だろうか。私はそこに、歴史を清算しようとする侯孝賢の意志を読み取らずにはいられない。もちろんそれは想像の域を出ないが、ともあれ本作は、それまでタブーとされてきた二・二八事件を扱いながら、大々的な宣伝がされ、社会現象級の話題作となった*3。日本支配、中華民国支配の過去を乗り越えて、民主化へと歩まんとする当時の台湾の人々は、この作品を見て何を感じただろうか。

 九份にあった映画館は昇平戯院という名で、JTBのウェブサイトによると、1934年に完成したものらしい*4。とするならば――九份には、4つの時間が存在していたことになる。つまり、日本統治時代、映画で描かれていた戦後の時代、『悲情城市』が作られた90年前後の民主化の時代、そして、今現在の時間である。それは過去へのノスタルジーを呼び起こすと同時に、台湾が抱えなくてはならなかった、日本統治から続く東アジアの歴史的なつながりを思い出させる。戦後台湾が経験した苦難に比べれば、日本統治時代はまともだったと言えるかもしれない。日本統治時代に台湾の近代化は進んだため、台湾は植民地時代をあまり悪く思っていないし、実際台湾は親日国だ、という類の主張は、日本で一般的と言っていいほどよく耳にする。確かに、日本の植民地支配は、教育の充実やインフラの整備、産業の拡大を促進したし、また植民地下であっても「法治国家」として機能していた。しかし、それが「植民地」である以上、台湾にとっていいことばかりではなかったのは当然であり、善悪二元論的な安易な判断で歴史を評価する行為は慎むべきであろう。伊藤潔の『台湾―四百年の歴史と展望』には、台湾で生まれたという著者のルーツもあってか、その誠実さが随所に感じられる。著者は日本統治下における教育の充実を以下のように述べる。

 

 もとより日本の植民地支配を肯定するものではないが、植民地化の近代化、わけても教育の充実がなければ、一九七〇年代以降の台湾経済の飛躍的な発展はなく、今少し先のことになっていたと思われる。[…]今日の台湾年配者に多く見られる親日感情は、これら日本人教師の存在に負うところ大である。日本が台湾を放棄した後、新たな支配者となった国民党政権は、日本植民地下の教育を「奴隷化教育」ときめつけているが、それは近代的な市民意識に対する認識を欠く為政者が、みずからの独裁と腐敗の政治を隠蔽し、責任を転嫁するための口実に過ぎない。(pp.117-118)

 

一方で、戦時下に台湾に同化を強いながら、戦後台湾人が日本国籍を喪失ことで充分な戦後補償を受けられなかったことを著者は指摘し、次のように述べる。

 

 これら三万余の台湾人犠牲者をはじめ、負傷した軍人、軍属、軍夫は、戦後、日本国籍を失ったことを理由に、なんらの補償も受けていない。その後一九七四末にインドネシアのモロタイ島に残留、三〇年ぶりに発見された元日本兵で先住民のスニオン(日本名は中村輝夫)の救出を契機に、台湾人元軍人、軍属、軍夫の補償運動が展開された。そして訴訟では、日本国籍の喪失を理由に敗訴となったが、一九八七年九月に成立した議員立法の「台湾住民である戦歿者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律」で、戦病死と重傷者を対象に一人につき二〇〇万円の弔慰金が、日本政府から支払われた。しかし、同じ「日本兵」として戦地で血を流しながら、戦後における日本人と台湾人の処遇には雲泥の差がある。また、アメリカやイギリス、フランスなど宗主国として植民地の民を戦場に送った国々は、手厚い戦後補償をほどこしている。この彼我の違いを見れば、台湾人に対する「一視同仁」や「皇民化」の同化政策は、ただの統治の手段に過ぎないと批判されても、いたし方あるまい。(pp.131-132)

 

 今現在の日本にとって、東アジアといえば中国、韓国、北朝鮮の存在感が大きい。そこには少なからぬ政治的な摩擦・対立があり、「東アジア」という言葉自体にどこか穏やかでない響きすら感じるかもしれない。その点台湾とは仲が良く、不穏な「東アジア」という枠の内部で考えられることはあまりないだろう。しかし、日本と中華民国による占領という歴史を歩んできた台湾は、紛れもなく――たとえ東南アジア的な熱気に包まれていようと――東アジアの一員なのである。

九份が観光名所になったのは、『悲情城市』のヒットがきっかけらしい。それにもかかわらず、『悲情城市』やそこで描かれる時代、さらにその歴史的な背景を知ることなく、前景化された「観光名所」という理由だけでそこを訪れる人が大半であるのは何とも皮肉である(何を隠そう、私もほとんどそうだったのだ)。しかし、そのような無自覚が台湾人、日本人双方に浸透しているということこそが、台湾が過去の歴史を乗り越えた――少なくとも日本統治のそれは――ことの表れかもしれない(日韓関係が未だに戦前・戦中を引きずっているのはだれの目から見ても明らかであろう)。だとするならば、九份に存在していた時間のうち、現在の時間を充分に楽しむことができた今回の台湾旅行は、とても貴重な経験であった。そう、台湾はいいところだったのだ。

 

悲情城市 [DVD]

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台湾―四百年の歴史と展望 (中公新書)

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*1:引用のほか、当記事における台湾の歴史に関する記述は本書に依拠した

*2:暉峻創三解説『台湾巨匠傑作選・2018』パンフレット(2018)p.24

*3:同上

*4:

JTB海外観光ガイド(最終閲覧日:2018年11月14日)

https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/asia/taiwan/BCE/112549/index.html