UNE FILM EST UNE FILM

映画は映画である。映画評、その他

「クレショフ効果」は本当なのか?

 「クレショフ効果」という有名なモンタージュ理論がある。ウィキペディアに乗っている説明を引用しておこう。

 

効果
「クレショフ効果」とは、ひとつの映像が、映画的にモンタージュされることによって、その前後に位置するほかの映像の意味に対して及ぼす、性質のことをいう。さまざまな映像群とは、ある映像群がほかの映像群に対して、相対的に意味をもつものである。観客にとって、映像がばらばらに単独で存在するわけではなく、つながりのなかで無意識に意味を解釈するのである。本効果は、映画的な説話論の基礎である。

実験
本効果のもつ意味論的伝染を強調するために、レフ・クレショフは、科学的経験(認知心理学)を開発した。クレショフは、ロシアの俳優イワン・モジューヒンのクローズアップのカットを選び、とくに無表情のものを選んだ。モジューヒンのカットを3つ用意し、3つの異なる映像を前に置いた。

第1のモンタージュでは、モジューヒンのカットの前に、スープ皿のクローズアップを置いた。 第2のモンタージュでは、スープ皿のかわりに、棺の中の遺体を置いた。 第3のモンタージュでは、かわりに、ソファに横たわる女性を置いた。

それぞれのシーケンスを見た後で、俳優(モジューヒン)があらわす感情を、観客は特徴を述べなければならない。第1では空腹を感じ、第2では、悲しみを感じ、第3では、欲望を感じたのである。

 

動画も貼っておく。

 

youtu.be

 

 ここでポイントとなるのは、対象となる俳優の表情が「曖昧」であるということである。すなわち、その俳優の表情の映像だけでは、嬉しそうにしている、怒っている、あるいは悲しんでいるなどといった意味を読み取ることができない。にもかかわらず、それと何らかの映像とつなぐことで、そのような新たな意味が立ち上がる、より正確に言うならば観客が意味を読み取ってしまう、というのである。

 実際に動画を見てみて、どう感じるだろうか?なるほど、そんな感じがしなくもない、ような気がする。しかし、私ははっきり言って、それはあくまでクレショフ効果の説明を知っているからそんな気がするだけであって、直感的にこの理論は胡散臭いと思っている。確かに、何らかの映像と俳優の曖昧な表情が繋げられれば、観客はそれらの間の意味を探ろうとするだろう。これは言うまでもなく当たり前のことで、観客は映像がつながれている以上、作り手が何らかの意図をもってそれをつないでるとほとんど無意識に思うからである。したがって、スープの映像と俳優の表情がつなげられていれば、「この俳優は、スープを見ているのだな」というくらいには、誰しもが判断するはずである。しかし、そこから先の、俳優が「空腹を感じ」ているという意味の部分はどうであろうか。俳優がスープを見ている以上、そのスープに対して何か思っているとは考えられる。だが、もし空腹を感じているのなら曖昧な表情ではなく、もっと嬉しそうな表情を浮かべているはずである。つまり、スープに対する俳優の表情として妥当な因果関係を見いだせる意味を、観客は見つけることはできないのだ。したがって、スープと曖昧な表情を浮かべる俳優とのモンタージュから生じる意味は、やはり曖昧であると言わざるを得ない。ただ、曖昧であるから、クレショフ効果の説明を知ったうえで動画を見てみると、そんな気もしなくないと思えてしまうのである。

 

クレショフ効果については、こんな解説動画も掲載されていた。この動画でもクレショフ効果の正当性について疑問を呈している。

 

youtu.be

 

 この動画では、そもそもクレショフが行った実験が、通説のように曖昧な表情の俳優を用いていなかったのではないかということが述べられているが、この点については専門家でない私には判断しかねる。しかし、7:05からの少年の笑顔の表情とのモンタージュは興味深い。このモンタージュではクレショフのそれよりも意味がより明確に読み取れるであろう。曖昧な表情よりも因果関係が理解できるからである。結局のところ、あるショットとあるショットをつなぐときに、その因果関係が明確であればあるほど、観客は一義的な意味を見出せるし、不明瞭であれば、解釈は多義的で曖昧になるという、ごく当たり前のことが言えるのである。ただし、念のために付け加えておくと、解釈が曖昧だから優れていない、というわけではもちろんない。曖昧であるからこそ人によって多様な受け取り方があり、そのような映画は観客に対して開かれていて豊かであるといるかもしれないし、見終わった後の語りがいもあるであろう。だが、曖昧なものは困惑を生むこともしばしばあるし、そのような「なんだかよくわからない」ものを嫌う人もいるので、注意は必要であるが。

 また、解説動画では、アンドレ・バザンにも言及し、彼を批判している。確かにバザンは、『映画とは何か』に収録されている「映画言語の進化」という論考で、次のように述べている。

 

結局、モンタージュは本質的に、そしてその本性からして、曖昧さの表現とは相容れない。クレショフの実験はまさにそのことを背理法によって証明している。それは人物の顔に明確な意味を与えるのだが、それら三つの解釈が立て続けに、ほかの解釈を寄せつけないものとして成り立つのは、その人物の顔の曖昧さゆえなのである。*1

 

 バザンは、クレショフの実験の正当性を無批判に受け入れているのであろう。しかし、今まで見てきた通り、曖昧なものはやはり曖昧なのである。曖昧なものでもモンタージュによって解釈が一義的になると主張するのは、クレショフ効果という「概念の眼鏡」をかけているからに他ならない。

 

 ここで一つ、あることに言及してみよう。それは映画評論家の町山智浩とある一般人(Twitterアカウント名「ひよこ豆」)の間で行われた『マイレージ、マイライフ』(ジェイソン・ライトマン、2009)の一場面の解釈を巡る議論である。当該シーンの動画と議論のまとめのリンクを以下に貼っておこう。

 

youtu.be

 

togetter.com

 

  映画のラストシーン、ジョージ・クルーニーが発着掲示板を見上げるシーンが何を意味するのかについての議論である。ここでは、両者の議論には深く立ち入らない。私が指摘したいのは、このジョージ・クルーニーはまさに曖昧な表情を浮かべている、という点である。ひよこ豆は、「彼の表情ははじめて海外旅行に出るひとのそれです。未知への希望に溢れている」と主張するが、断定できるほど明確に希望に満ちていないだろう。

 もし、クレショフ効果を前提とするのなら、彼の曖昧な表情と、続くキャリーバッグから手を離すショットから新たな、そして明確な意味が生まれてくる。彼は作中で、「バックパックの中に入りきらない人生の持ち物は背負わない」と言っているので、キャリーバッグから手を離すショットは、今までの生き方から手を離すこと、すなわち今までの生き方から距離を置いてみることを象徴しているといえるだろう。そうすると、曖昧な表情のショットとの間に生まれてくる意味は、結果的にはひよこ豆の述べるような「もっと豊かな自らの生を生きることを決意している」といったものになるといえる。

 しかし、解釈を巡って議論が行われているという事実が何よりも物語る通り、バザンが言うような「人物の顔に明確な意味を与え」、「ほかの解釈を寄せつけないものとして成り立つ」ものとしてこのシーンを判断することは、明らかに破綻している。やはり、クレショフ効果という「概念の眼鏡」をかけて解釈しない限り、意味は一義的にはならないのだ。それはつまり、心理学レベルでのクレショフ効果は認められない、と言わざるを得ないことを意味するのである。

 

 ただし、最後に付け加えておくと、クレショフ効果を否定することが、他のモンタージュの効果を否定することにはつながらない。例えば、ミュージックビデオやCMなど、物語を必要としない映像の場合は、イメージをモンタージュすることによって、一義的な意味が生じないにしても、観客に何らかの心理的作用を働きかけるのではないか。この点に関しては恐らく、いろいろな書籍なり先行研究なりがあるであろう。それらを参照していただきたい。

*1:アンドレ・バザン『映画とは何か(上)』岩波書店(2015)p.127